「ボンベイ」 (BONBAY)

インド映画 1995年アーラヤム製作 2時間21分

監督:マニラトナム(Mani Ratnam)

撮影:ラージーヴ・メーナン(Rajiv Menon)

音楽:A・R・ラフマーン(A.R.Rahman)

作詞:シュリー・ヴァイラムットウ(Shri Vairamuthu)

美術:トーッター・タラニ(Thotaa Thatani)

出演:アラヴィンド・スワーミ(Arvind Swamy)

   マニーシャー・コイララ(Manisha Koirala)

ナーザル(Nasser)

キッティ(Kitty)

ハルシャー(Harsha)&フリダイ(Hriday)

 

  映画大国インドの映画が最近日本ではかなり頻繁に上映されるようになった。1998年に日本で公開され、大きな評判を得たムトウの「踊るマハラジャ」などもその1つであろう。インド映画の特徴は、その歌と踊りの大衆的娯楽性にあろう。ストーリーの中に、突然ミュージカル・シーンが挿入される。

 「BOMBAY」もその例外ではない。ジャーナリスト志望のセーカルが久しぶりに故郷の村に帰ってきて、ムスリムの瓦職人の娘シャイラーと恋に落ちる。ベンガル湾の波しぶきが舞う廃砦の岸壁に恋人を待つセーカル。少女は初恋の戸惑いと不安の中で、砦に辿り着きセーカルの待つ岸壁に近づいていく。そこで歌われるのが、『僕のいのち』である。「愛しい君 どうか僕のもとへ 愛しい君 僕とひとつになろう…」とセーカルが歌うと、それに応えるようにシャイラーが「来たわ 貴方とひとつになるために とうとう垣根を 飛び越えてしまった…」と歌い返す。主演のマニーシャー・ニィララが絶世の美女だけに、荒天の夜、人気の無い荒れ果てた迷路のような砦にうら若き少女が来て、無事セーカルに逢えるのだろうかとハラハラ、ドキドキしながら見ていると、いつしか少女の初恋に感情が移入されている。岸壁に向かう途中、イスラムの黒衣は少女の体を離れ、鮮やかなブルーのサリーが現れる。ヒンドウーとムスリムの宗教の対立を越えた命をかけた愛の始まりである。

 命をかけた恋を歌い、歌い返すといえば、日本では『万葉集』の額田王の「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」と、天武天皇の返歌「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人嬬ゆゑに あれ恋ひめやも」を思い出す。

 ストーリーは、ボンベイへ駆け落ちした二人に、ヒンドウーとムスリムの融和の証の双生の子供が生まれ、それぞれの両親も孫の顔見たさに二人の住まいを訪れ、二つの家族は和解することになるのだが、そこで発生するのが、インド東北部・アヨディアの500年の歴史のあったモスクをヒンドウー至上主義が襲撃し跡形も無く破壊してしまった事件に端を発した1992年12月からのヒンドウー至上主義とムスリムとの対立・血で血を洗う大暴動・ボンベイ暴動である。ボンベイだけで数百人の死者が出たといわれる。両親は暴動で命を落とし、双生の子供は暴動で行方不明となり、暴徒の荒れ狂う町を二人は子供を捜し求めてさ迷い歩くことになる。この暴動のシーンの迫力は圧巻であり、衝撃的である。当映画も何箇所かセリフやシーンをカットされるなど政府の検閲を受けたそうである。

 日本では日常的な宗教性が薄く、宗教対立といってもピンと来ないものがある。映画の冒頭、黒衣のベールに身を包みイスラムの学校に通う少女を見初めるシーンで、セーカルの友人が「首を切られるぞ」と忠告するが、黒衣=イスラム=ヒンドウーではないとはその瞬間には判断できないものがある。映画の進み具合と判断は、多少時間的にずれながらストーリーを理解していくことになるが、考えさせられる映画である。